アイドルの歌に個性が失われた理由

音程の補正より“味”のある歌声を!

 AKB48グループの選抜総選挙が今年も開催される。早いもので第8回。シングルの選抜入り、そしてセンターを巡って熾烈な争いが繰り広げられ、毎年ドラマを生んできた。それは事実だが、1位を獲ってセンターになっても、あくまでポジションの問題。歌で中心になって目立つわけではない。
 センターが前田敦子でも大島優子でも指原莉乃でも渡辺麻友でも、最新シングルで向井地美音がセンターに抜擢されても、AKB48の“歌声”は変わらない。一般にはそう感じられている。山本彩メインの朝ドラ主題歌「365日の紙飛行機」などの例外もあるが、グループ内の歌割りだけの問題でもない。
 AKB48でもSKE48でも乃木坂46でも、あるいはモーニング娘。’16でもももいろクローバーZでも、歌声の違いはどれぐらいあるだろう? 知らずに曲を聴いたら、声から判別はつくだろうか。誰が歌っているのか、CDからは顔が見えにくい。
 大人数グループゆえの話でもない。現代のレコーディングで使われる音楽制作・編集ソフト「Pro Tools」では、音程の補正がかなり効く。エンジニアに聞くと、二音ズレていても正しい音程に直せるのだとか。ただし、音声の波形を直す物理的帰結として、声は平坦でのっぺりした印象になる。
 技量的に補正箇所の多いアイドルの歌声が均一になりがちなのは、これが大きな理由。人数が多いグループで1人1人の声を補正するほど、全体の均一化は著しくなる。生放送でない歌番組でも、こうした補正をしてからオンエアすることがあるのだとか。だが、音程だけ正確な歌が、果たして良いのだろうか?
 思えば往年のアイドルの歌は、技術的にうまいかどうかと別に、声にそれぞれの“味”があった。松田聖子や中森明菜はもちろん、松本伊代の鼻づまりのような声、菊池桃子のささやくような声、三浦理恵子のキャットボイス、鈴木あみの張った低音……。
 中年のノスタルジーで「昔は良かった」などと言いたいわけではない。そうした歌い方はアイドルならではの個性であり特権であったと思うのだ。
 たとえば、ジュブナイル映画の名作「時をかける少女」(1983年)では、主演で当時15歳の原田知世が同名主題歌も歌っている。か細く消え入りそうな声で。それがタイムトラベルでさまよい夢うつつな少女像と、見事にシンクロしていた。作詞・作曲は松任谷由実でセルフカバーもしているが、こちらは直線的で何の面白みもなかった。
 また、近年は政府の「1億総活躍国民会議」のメンバーに選ばれたりと忙しい菊池桃子のデビュー曲「青春のいじわる」も、ささやく歌声があって名曲となった。
 “青春の躊躇いの中で/僕たちは動けずにいたね”というお別れの歌。純粋なゆえに傷つき、“一緒に歩いた陽射しのまぶしさだけ”を思い出に……という(作詞・秋元康)。この切ない痛みは、教科書通り腹式呼吸で声量たっぷりに歌って伝わるものではない。菊池桃子の歌だからこそ、心が震えたのだ。10代の少女にしか表現できないものがあったと、今聴くとわかる。
 そんな個性的な歌声のアイドルがいなくなった……と思いきや、「いた!」となったのがチームしゃちほこの秋本帆華だ。本人のおっとりキャラそのまま、脱力系のフワッとした歌声。CDでもソロパートはすぐ彼女と分かる。「おっとりガールの憂鬱」というソロ曲も持ち、“頑張ってるけど頑張ってるように見えないの”などと歌っていて。
 残念ながら自分は観てないが、昨年12月に名古屋で行ったソロライブは「夢の中のほのテル~行ってみたいと思いませんか?fufufu♪~」とのタイトル。きっと彼女ならではのドリーミーな世界をたっぷり味わえるステージだったのだろう。
 乃木坂46の西野七瀬もソロ曲「ひとりよがり」などで、はかなげで自信なさそうな歌が胸を打つ。たぶん補正はされているのだろうが、ヘンに“うまいっぽく”しないほうが絶対いいと思う。
 音程を外さないから歌に感動するわけではない。個性を消す補正なんかいらない。聴きたいのは、アイドルでしか味わえない歌なのだ。

ライター・旅人 斉藤貴志