おニャン子クラブ解散30周年カウントダウン -元おニャン子たちの現在-⑧ 布川智子

おニャン子クラブ解散30周年カウントダウン -元おニャン子たちの現在-⑧ 布川智子

PHOTO=稲垣純也 TEXT=村田穫
 

80年代アイドルの象徴であり、現在に続くグループアイドルの礎を築いたおニャン子クラブ。9月20日の解散30周年まで6カ月を切った今、元メンバーたちに当時の思い出や近況を語ってもらいました。第8回は、元シブがき隊のふっくん(布川敏和)の妹で、シングル曲のフロントボーカルも務めた布川智子さん。おニャン子クラブ解散後は芸能界を引退し結婚しましたが、現在は、結婚後の名前である荻野智子名義で芸能活動を再開し、キャラ食の講師や食育アドバイザーとして活躍しています。

 

「お先に失礼」のレコーディングは
丸1日かかってしまいました(笑)

 
――布川さんがおニャン子クラブのオーディションを受けたのは、やはり、お兄さん(布川敏和)みたいに芸能界で活躍したかったからですか?

「意外かもしれないですけど、芸能界志向はほとんどありませんでした。でも、おニャン子クラブに入ったのは兄が関係しているんです。実は高校に入った当初から“ふっくんの妹”ということで靴を隠されたり先輩に呼び出されたり、色々と大変だったんですよ。それで『これじゃ高校生活ができない』ということになり、兄が通っていた定時制の高校に転校したんですが、学校は夕方からなので昼間はやることが無くて……。そんなとき、芸能事務所からスカウトされたので迷っていたんです。すると当時夕ニャン(夕やけニャンニャン)に出演していた兄から、『芸能活動するならおニャン子クラブにすれば?』と言われオーディションを受けました。合格できたのはおそらくコネでしょうね(笑)」。

――オーディションのときもそれ以降も、おニャン子クラブでは “ふっくんの妹”ということは公表されませんでしたね。

「あえて伏せていたんですかね? 理由は今でもわからないんですよ。でも、顔が兄に似ていたし、オーディションの歌の審査のときに、とんねるずさんから『それでは歌ってもらいましょう。“トラ! トラ! トラ!(シブがき隊のシングル曲)”』とか言われたので(笑)、気付いた人は多かったと思います」。

――夕ニャンにはお兄さんと一緒に出演することもありましたが……。

「恥ずかしさとかやりづらさとかは全然無かったですね。逆に、兄や兄のマネージャーさんに色々とお世話になりました。当時も今もマッチ(近藤真彦)のファンなんですけど、兄がマッチの楽屋に連れて行ってくれたことがあって、そのときは本当に感謝しました! あと、ダンスがうまくできなくて泣いていたとき、(兄の)マネージャーさんが慰めてくれたこともありましたね。その話を聞いた兄は『ダンスのセンスは俺に似ちゃったなぁ』って笑っていました(笑)」。


――おニャン子たちに初めて会ったときはどうでした?

「(城之内)早苗ちゃんとは同じ学校で、(おニャン子クラブに)入る前から友達だったから、その延長でしたね。他のメンバーもクラスメイト感覚だったと思います。当初からソロデビューしたいという思いは無かったので、ライバルという意識は全然ありませんでした」。

――おニャン子クラブに入って驚いたことは?

「ある程度芸能界のことを知っていたので、芸能活動に関してはあまり無かったですね。ただ、『ディスコに行っちゃいけない』とか『男女交際禁止』とか決めごとが色々あったので、意外と厳しいんだなと感じました。でも、男関係については兄のほうが厳しかったですね。私のことをすごくかわいがってくれていたので、『俺の妹に手を出すな!』みたいな感じで……。高校のクラスメイトに光GENJIのとあるメンバーがいて、私に手を出してきたんですけど、すぐに兄がそのメンバーをシメたくらいです(笑)」。

――5枚目のシングル「お先に失礼」ではフロントボーカルを務めました。

「おそらくファンの方は『コネでフロントボーカルになったんじゃないの?』と思っていたでしょうね(笑)。でも、私の知る限り、そういう話は無かったみたいで……。ただ、歌もダンスもうまくなかったから、正直『私でいいの?』って思いました。実際にレコーディングはものすごく大変だったんですよ。私のパートを収録するだけで、なんと丸1日もかかったんです! 当時は今ほどレコーディングの技術が高くなかったから、歌い直しの連続でした。その後、『これはヤバいぞ』ということで(笑)、キャニオンレコード(現・ポニーキャニオン)のスタッフさんからボイトレを強化するように言われ、1人でレッスンに通うことになりました」。

――その甲斐があって、ラストシングルの「ウェディングドレス」でもフロントボーカルに……。

「少しはマシになったんですかね(笑)。実は『ウェディングドレス』のフロントボーカルは、長期間おニャン子クラブに在籍し、解散後は芸能界に残らないメンバーということでこの5人(富川春美、永田ルリ子、白石麻子、横田睦美、布川智子)になったんですよ。スタッフさんの中でも(会員番号33番の)私までがおニャン子色の強いメンバーという感じだったみたいです。ラストシングルでフロントボーカルになれたことはいい思い出ですね!」。

――布川さんが加入した1986年は、おニャン子クラブの人気がピークでしたね。

「夕ニャンの収録中はあまりピンとこなかったんですけど、コンサートでは人気を肌で感じました! 日本武道館や代々木第一体育館といった大きな会場が当たり前だったので信じられなかったです。昨年、息子とEXILEのコンサートを観にナゴヤドームに行ったとき、その観客の多さに驚いたんですけど、おニャン子クラブも横浜スタジアムでコンサートをやったので、当時の人気を再認識しました。コンサート後の追っかけも凄かったですね。大阪のコンサートでは原チャリが料金所を突破して、高速道路まで私たちの乗ったバスを追っかけてきたんですよ! あれにはビックリしました(笑)」。

――おニャン子クラブの活動で一番楽しかったことは?

「写真集の撮影とアルバムのレコーディングで海外に行ったことです。ディズニーランドに行ったり買い物に行ったり、すごく楽しかったですね。何の気兼ねもせずに行動できたのも嬉しかったかな? 当時国内だと、なかなか羽を伸ばせなかったんですよ。高校の修学旅行のとき、仲のよかった早苗ちゃんを含めて数人のグループで自由行動したんですけど、すぐに気付かれてしまって、何百人も集まってきちゃったんです。あのときは本当に怖かったですね」。


――そんなおニャン子クラブも1987年6月に解散が発表されました。

「解散ということを全く考えていなかったので寝耳に水でしたね。ソロデビューしているメンバーは違ったと思いますが、芸能事務所に入っていないメンバーはスタッフさんと親を交えた三者面談があり、そこで解散後について話し合ったんです。その後、兄とも話をしたんですけど、『本気で芸能活動をしたいのでなければ、芸能界には残らない方がいい』と言われたので、解散とともに芸能界を離れることになりました」。

――ファイナルコンサートはどんな気持ちで臨みました?

「芸能界への未練が無かったので、意外とさっぱりしていましたね。私にとってのおニャン子クラブはクラブ活動みたいなものだったから、それこそ部活の最後の試合といった感じでした。他のメンバーに比べて涙が少なかったのも、おそらくそれが原因だったと思います。数年前に娘とファイナルコンサートの映像を観たとき、『なんでママだけ泣いてないの? 汗で泣いたふりしてるでしょ!』ってからかわれました(笑)」。
 
 

現在は料理教室のキャラ食講師や
食育アドバイザーをしています!

 
 
――おニャン子クラブ解散後は、どのような生活をされていたんですか?

「解散後は短大に通っていました。(白石)麻子ちゃんと同じ短大だったので楽しかったですね。短大を卒業した後は父が経営する会社を手伝っていて、兄が結婚するまでは兄と一緒に暮らしていました。この頃になると追っかけもいなくなっていたので、仕事の傍ら、結構兄と一緒に遊んでいましたね(笑)」。

――ご結婚されたのはいつですか?

「30歳のときだから1998年です。結婚したときは東京に住んでいたんですけど、主人は転勤の多い仕事だったので、その後、大阪、名古屋、浜松と各地を転々としていました。主人の転勤もようやく終わり、現在は名古屋に落ち着いた感じです。主人は私よりも10歳年上で、芸能関係の仕事でもないから、“ふっくんの妹”ということは知っていたんですけど、おニャン子時代の私のことはよく知らなかったんですよ。私に対して元アイドルという感覚が無いから、今でもいい関係でいられるんだと思います!」。


――お子さんも3人いらっしゃるそうで……。

「息子が2人で娘が1人です。私が元アイドルで、兄と兄の元奥さん(つちやかおり)が芸能人、その上、兄の子供(布川隼汰、布川桃花)も芸能活動をしているので、次男と娘は芸能界に興味があるんですよ。次男は俳優に、娘はAKB48のメンバーになりたいと言っています(笑)。ただ、普通の子に比べると芸能人に対する感覚は違いますね。周囲に芸能人が多数いる中で育ったから、子供たちにとっては芸能人が特別な存在ではないんです。クラスメイトから“元アイドルの子”として騒がれたときも、その理由がわからなかったみたいでした。長男は芸能界に興味が無いみたいで、野球に打ち込んでいます!」。

――子育てで大変だと思ったことは?

「それが全然無いんですよ。おニャン子クラブを卒業した後、結婚するまでは結構自由を満喫できたし(笑)、現在も自分の好きなキャラ食作りが子育てに繋がっているので、ストレスを感じることが無いんですね。この春、長男が高校3年生になったんですが、反抗期も無かったと思うし、家族全員、楽しく暮らしています! 早苗ちゃんからは『あの智ちゃんが……』って驚かれました。自由奔放に生きていた昔の私を知っているから、『子育てなんかできるわけがない』って思っていたんでしょうね(笑)」。

――そのキャラ食作りですが、現在は料理教室で講師をされているんですよね。

「現在小学6年生の娘が幼稚園のとき、キャラ弁を作り始めたのがきっかけでした。そのキャラ弁が好評で、口コミで広がっていったんです。次第に娘の友達のお母さんから『どうやって作るの?』と聞かれるようになり教えることになりました。その後、息子が野菜を全然食べなかったのでなんとか食べさせたいと思い、見た目が美しくて食べやすいキャラ食へと発展していったんです。食育アドバイザーの資格もこの時期に取得し、栄養にも気を使うようになりましたね。おかげさまで現在は、名古屋市の教育委員会から講師や講演のオファーも来るようになりました!」。

――以前から料理には興味があったんですか?

「親が料理上手だったので、私も兄も幼い頃から料理には興味がありました。兄も現在『ふっくん家めし』というテーマでブログを更新しているくらいですから(笑)。だから、キャラ食のアイディアも自然に出てきた感じですね。キャラ食を作るようになってからは、子供たちとのコミュニケーションも増えてきました。意見や感想も言ってくれるので、それがさらなる励みになるんです!」。

――今後の目標は?

「せっかくここまでやってきたので、是非、キャラ食に関する本を出したいですね。現在はブログでの公開がメインなので、キャラ食作りのノウハウやレシピ、そしてキャラ食の魅力をまとめてみなさんにお届けしたいです。出版業界で興味のある方は、連絡をお願いします(笑)」。


――おニャン子クラブの解散から現在までは長かったですか? 短かったですか?

「短かったですね。今年が解散から30年ということは、結婚してから19年になるので、その意味でもあっという間だった気がします。20代は自分のやりたいことを楽しみ、その後は子育てに奮闘していたので、時期によって違いはありますが、振り返ってみれば幸せな30年だったと思います!」。

――この間、自分が元おニャン子だということで辛かったことは?

「私の場合、“元おニャン子”よりも“ふっくんの妹”の方が常についてまわっていたので、おニャン子だったことに関してはあまり無かったですね。現在でも街中で視線を感じたり買い物かごの中を覗かれたりすることがありますが(笑)、それは“ふっくんの妹”という要素の方が大きいんだと思います。おそらく兄が芸能人ではなかったら、ここまで注目されたり話題になったりはしなかったと思うんです。その意味では一般人にはなれないんだなと感じました。でも、それは自分の運命だと思っているので、辛いという感覚ではないですね」。

――昨年は、おニャン子ファンの間で恒例になっている、9月20日の解散記念ビデオコンサートに出演されました。

「私がメインボーカルを務めた『お先に失礼』と『ウェディングドレス』を久美ちゃん(宮野久美子)と歌ったんですけど、ソロパートは本当にファイナルコンサート以来だと思うので、震えながらステージに向かいました。正直、久美ちゃんがいなかったらボロボロになっていたと思います(笑)。お客さんの熱気も当時のままだったから圧倒されましたね。ラストは国生(さゆり)さん、内海(和子)さん、久美ちゃんと一緒に『じゃあね』を熱唱。またみんなで歌いたいです!」。


――現在も元メンバーとは仲がいい感じで?

「交流のあるメンバーは限られていますけど、仲はいいですね。中でも愛知組(布川智子、斎藤満喜子、宮野久美子)は年に数回会ったりします。昨年の春までは岡本(貴子)も愛知県在住だったのでよく会っていました。あとは早苗ちゃんとか恵利ちゃんですね。普段のママ友からは、どうしても芸能人という目で見られている部分があると思うので、元メンバーと一緒にいると楽なんです。今年は解散30周年なので、元メンバーが集まる機会があれば、是非、参加したいですね!」。

――布川さんにとっておニャン子クラブとはなんですか?

「いい思い出であり、青春時代のクラブ活動ですね。私が通っていた高校は定時制だったので、文化祭や体育祭が無かったんです。だから、おニャン子クラブに入っていなかったら、きっと兄のことを常に気にしている暗い人間で、思い出の無い高校生活を送っていたと思うんですね。私に素敵な思い出を作ってくれたおニャン子クラブは、青春時代の掛け替えのない存在だったと思います!」。


 


 
 

荻野智子(おぎの・ともこ)

生年月日:1968年8月30日
出身地:神奈川県
血液型:B型

 

【CHECK IT】
1986年1月、おニャン子クラブのオーディションに合格し会員番号33番として活躍。5thシングル「お先に失礼」、ラストシングル「ウェディングドレス」ではフロントボーカルを務める。おニャン子クラブ解散後は芸能界を離れ、短大を卒業した後は父親が経営する会社で勤務。1998年に結婚し3児の母親として主婦をしていたが、2011年に結婚後の名前である荻野智子名義で芸能活動を再開。現在はキャラ食の講師や食育アドバイザーとして活躍している。愛知県在住。
 

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