おニャン子クラブ解散30周年カウントダウン -元おニャン子たちの現在-⑫ 国生さゆり

おニャン子クラブ解散30周年カウントダウン -元おニャン子たちの現在-⑫ 国生さゆり

PHOTO=稲垣純也 TEXT=村田穫
 

80年代アイドルの象徴であり、現在に続くグループアイドルの礎を築いたおニャン子クラブ。9月20日の解散30周年を翌月に控えた今、元メンバーたちに当時の思い出や近況を語ってもらいました。最終回となる第12回は、おニャン子クラブの結成時から在籍し、後にリーダー的な存在へと成長を遂げた国生さゆりさん。おニャン子クラブ卒業後も芸能活動を継続。現在はドラマや映画などの女優活動を中心に、バラエティ番組でも活躍しています。

 

新田派・国生派という派閥は
まったく無かったです(笑)

 
――まずは、夕ニャン(夕やけニャンニャン)の前身番組である「オールナイトフジ女子高生スペシャル」に出演することになったきっかけをお願いします。

「前年にCBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)が協賛の『ミスセブンティーンコンテスト』に出場し、中国地区代表として全国大会まで残ったんです。残念ながらコンテストでは入賞できなかったんですけど、その後、ソニーの方から『レコード会社対抗の芸能人運動会に出場してほしい』という連絡を受けて、お世話になることになりました。その方がオールナイトフジのディレクターだった笠井(一二)さんと知り合いだったので、出演することになりました」。

――その後、おニャン子クラブの一員として夕ニャンに出演することになりますが……。

「高校を卒業するタイミングだったんですけど、就職が決まっていたし、小さい頃からの夢だった陸上選手の道も叶わなかったので、(夕ニャンのお話をいただいたときは)すごく悩んでいました。そのとき母が『これからの女の子は何か特技を持っていた方がいいから、そういったお話があれば応援するよ!』と言ってくれて、反対していた父を説得してくれたんです。こうした両親の応援と理解、そして、フジテレビとソニーが東京での仕事や生活に関してしっかり対応してくださったこともあり、出演することになりました!」。

――おニャン子クラブの活動が始まった当初はどうでした?

「仕事面では覚えなければならないことが多かったです。それに加えて、わからないこともたくさんありました。月曜日から金曜日まで毎日レギュラー番組があることのありがたさも、テレビに出ることによる影響力もわかっていなかったので、毎日お仕事をしながら、ひとつひとつ勉強していった感じです。メンバーは華やかな子が多かったですね。ファッショナブルだし、お化粧も上手だし、積極的だし……。地方から出てきたばかりということもあったので、ものすごく憧れがありました! でも、大勢の女の子の中で過ごすことが苦手で……。そのあたりは仲のよかった(福永)恵規ちゃんに随分助けられました(笑)」。

――福永さんとは当初から仲がよかったんですね。

「同い年だったし性格的にもすごく気が合ったので、とても仲がよかったです。特に電車の乗り方など、東京での生活に関しては恵規ちゃんが大きな支えになっていました。当時は家が近かったこともあり、(恵規ちゃんの)ご家族にもお世話になりました。だから、おニャン子時代の写真集では、恵規ちゃんと一緒に写っている写真が多いと思います(笑)」。


――おニャン子時代に心がけていたことは?

「最初の頃はメインのメンバーではなかったので、ソロデビューが出始めたときは『ソロデビュー』が目標でした。ソロデビュー後の目標は『月曜ドラマランドの主演』になりました。このように、身近な目標がクリアできたら新たな目標を設定して、常に前へ向かっていくことを心がけていました。ソロデビュー後のメンバーは、ほぼ同じ道を進むので、彼女たちと同等か、それ以上の結果を残したいという気持ちが強かったです!」。

――国生さんは、新田(恵利)さんのソロデビューから1カ月後の1986年2月にソロデビューしました。

「やはり嬉しかったです。ただ、メインで歌ったことがなかったので、レコーディングでは自分の歌声に慣れるまで意外と大変でした。正直、自分の声が恥ずかしかったんです(笑)。あと、当時は秋元(康)さんのプロデュースやレコード会社の色があったので、その期待やイメージに応えるほうが、自分の色を出すことよりも大事だったような気がします。そのため、デビュー曲の『バレンタイン・キッス』と2枚目の『夏を待てない』のジャケットは、同じカメラマンに撮影していただき、ポニーテールも変えませんでした。自分の色を出せるようになったのは、4枚目の『あの夏のバイク』あたりからだと思います」。

――「バレンタイン・キッス」を振り返るときによく耳にするのが、「オリコンのウィークリーチャートで1位になれなくて悔しかった」という話ですが、正直なところは?

「今では『悔しい』と言っていますけど、当時は『私って、やっぱり今ひとつ乗り切れないんだな……』という残念な気持ちでいっぱいでした。おそらく自分に自信が無かったんだと思います。でも、この経験があったから後に3作続けて1位になれたと思うし、今でも芸能活動における糧となっているので、私にとっては大きな出来事でした」。

――「もっと早くソロデビューしたかった」とか「フロントボーカルになりたかった」という思いはありました?

「私より前にソロデビューしたメンバーは、歌が上手だったり絶大な人気があったり、様々な理由があったので当然だと思っていました。もちろんソロデビューしたいという気持ちはありましたけど、自分はまだだろうなと感じていたので、(ソロデビューの)時期に関して悔しさは無かったです。フロントボーカルは、なりたい以前に『大変そうだな』という感覚が強かったかな? 20人近いメンバーの中から数人が選ばれるので責任も重大だし……。(初期のフロントメンバーだった)恵規ちゃんの近くにいることが多かったから、その大変さをすごく感じていました。おそらく私には務まらなかったと思います(笑)」。

――おニャン子クラブでの国生さんはリーダー的存在でした。

「リーダーという意識は全然ありませんでした。中学~高校が体育会系だったので、その感覚で活動していただけです。自分で言うのもなんですけど、人一倍正義感が強く正直だったので(笑)、体育会系の子がほとんどいないおニャン子クラブの中ではリーダーみたいに見えたんだと思います。今のアイドルグループではメンバーのまとめ役を務めるリーダーがいるみたいですが、おニャン子クラブではそういった役割は(フジテレビの)スタッフさんがやっていたので、リーダーという概念はありませんでした。ただ、スタッフさんからの伝達事項はメンバーに必ず伝えていたので、大人からの信頼はあったと思います」。

――近年では“新田派・国生派”という話が出ていますが、そのあたりは?

「なんか“二大派閥”みたいに思われているみたいですけど、そんな派閥はまったく無かったです(笑)。(新田)恵利ちゃんには“派”と言えるくらい一緒にいる友達がいましたけど、私といつも一緒にいるのは恵規ちゃん・(名越)美香ちゃん・(樹原)亜紀ちゃんだったので……。恵利ちゃんもインタビューで『まったく意識していませんでした』って言っていました。正直、なんでこんな話が出てくるのか不思議です(笑)」。


――国生さんがおニャン子クラブを卒業したのは、解散の約半年前でした。

「おニャン子クラブとしての活動も続けたかったんですけど、ソロとしての活動をキチンとしていかないと先々厳しくなるので、卒業が決まったときは、今まで以上に頑張らなきゃいけないと思いました。もちろん芸能界で成功したいという気持ちもありましたけど、私の場合、地方から出てきていたので、自分の生活を自分で支えなければいけないという面も大きかったです。卒業後はスキルアップするための時間が増えましたが、フジテレビ以外では“初めましての新人”だったので(笑)、そこへ入っていく気苦労は正直ありました」。

――おニャン子クラブの解散を知ったときの心境は?

「もっと続くものだと思っていたので『なんで解散しちゃうんだろう?』という思いが強かったです。残ったメンバーには(渡辺)美奈代ちゃんや(渡辺)満里奈ちゃんといった人気メンバーもいたわけだし……。芸能界っていい時期もあれば悪い時期もあるのが普通じゃないですか。だから、解散はもったいないなと思いました。彼女たちをメインにした新たなおニャン子クラブにしてほしかったです」。

――ファイナルコンサートの思い出があれば……。

「笠井さんが泣いていたことです。ステージの正面で最後に去るタイミングをメンバーに指示していたんですけど、泣きながら指示を出していたんです。よく見ると笠井さんだけではなく、夕ニャンスタッフの石田(弘)さんも坂間(和夫)さんも、そして秋元さんも泣いていて……。絶対的な権限を持っていた気丈な大人たちが泣いているのを見て、『本当におニャン子クラブは解散するんだな……』と実感しました」。

 
 

この30年で一番成長したのは
『我慢を覚えたこと』かな(笑)

 
 

――おニャン子クラブ解散後はしばらくアイドル活動を継続していましたが、その後、女優に転身しました。

「歌手として活動できるのであれば続けたかったというのが本音です。でも、自分の実力だと、本格的な歌手になるのは難しいと思いました。それと同時に、演じることの楽しさを覚えたので、女優でやっていきたいという思いが強くなってきたんです。環境的には両方できたと思いますが、それだと“元おニャン子のアイドル”という枠がいつまでたっても外れないので、あえて女優以外の仕事はしていませんでした」。

――“演じることの楽しさ”を覚えたのはいつ頃ですか?

「21歳ぐらいのときです。小説をよく読むようになったのがきっかけでした。小説って登場人物の考えや動きなどが細かく書かれているじゃないですか。でも、ドラマや映画の台本は基本的にセリフのみで、考えや動きは細かく書かれていないんです。その考えや動きを頭の中でシミュレーションするのが好きだったんです。それが自分の思った通りにできて、監督さんや演出家の方のイメージと一致したときの達成感がものすごく心地よくて……。きっと私は、“人に褒めてもらいたい”“人に認められたい”人間なんでしょう(笑)」。

――女優としての転機になった作品は、「車椅子の花嫁」(1987年)だったのでは?

「印象深いドラマなので、そう言っていただけると嬉しいです。実在する方をモデルにした作品は初めてだったし、私が変な演技をすると、その方の印象も悪くなってしまうので、とてもプレッシャーがありました。24時間テレビのドラマだったことも大きかったです。他にもたくさん候補がいたと思われる中で選んでいただいたので、とても光栄でした」。

――他にも思い出深い作品があれば……。

「『春の砂漠』(1988年)です。名取裕子さん・檀ふみさんと三姉妹を演じたんですけど、演出の深町幸男さんが、大先輩の2人と一緒に演じられように一から指導してくださいました。あと、ゲスト出演させていただいた『八丁堀捕物ばなしⅡ』(1996年)で斎藤光正監督とお会いしたのも大きかったです。時代劇で女性を演じるのは所作以上のものが必要なので、とても難しいんです。しかも私の役は、匂い立つような妖艶な女性(笑)。斎藤監督が懇切丁寧に噛み砕いて、演技の仕方を叩き込んでくださいました。2作品とも当時はすごく大変でしたが、今思えば、本当にありがたかったです!」。


――こうした女優としての時代が長く続きましたが、2004年の「ロンドンハーツ」あたりから、バラエティ番組での活躍も目立つようになりました。

「昔はバラエティ番組とドラマの間に大きな隔たりがあったんですが、時代とともに、バラエティ番組でのキャラクターや人となりがドラマのキャスティングに繋がるようになってきた気がしたんです。なので、このまま演技だけをやっていたら女優としての幅が狭まると思ってバラエティ番組に出演するようになりました。ロンハー(ロンドンハーツ)の『格付けし合う女たち』に出させていただいたことで、これまでとは違った一面を知っていただけたと思います(笑)」。

――「格付けし合う女たち」での“誇張されたキャラクター”によって不本意な誤解を受けることもあったのでは?

「バラエティ番組なので誇張されるのは当然だと思うんですが、『誇張されたキャラクター=国生さゆり』と思われている部分も少なからずあるので、バラエティ番組の影響力を感じました。そのあたりをうまく理解してもらえないのは自分の責任です。後に、『注目される言動を雑にしてしまった』という感覚が出てきたので、『言い方や立ち振る舞いをもう少し丁寧にしておけば……』と反省しました。ただ、ネガティブに考えれば『なんで私だけ悪いイメージで見られるの?』となるんですが、“注目されているから叩かれる”わけでもあるので、広い意味ではいいことでもあると思います」。

――深い話ですね。

「例えば『あなたのことが好きです』という感情があったとします。本当の私は、相手が(私の)行動や表情を見ていればわかることだから、『好きです』という言葉自体も言わないんですが、バラエティ番組では前にのめって力強く『あなたのことが好きです!』と押してしまうんです。そのほうがワンショットで抜かれるだろうし、説得力もあると思うからなんですけど、“強引で強い人”という印象になりますよね。こういった言動をワイドショーのコメントなどでもしてしまって……。細かな気遣いが欠けていたんです」。


――このあたりは私生活にも影響した感じですか? よく「波乱万丈な人生」と言われていますが……。

「どうなんでしょう(笑)。ただ、私生活に関しては細かな気遣いをせず、正直でいいと思っていた部分はありました。それは交際相手に対してもマスコミに対してもそうです。 これまでの芸能活動で“聞かれたことには本音を簡潔に話す”という訓練を受けてきていたので、つい、話さなくてもいいことを話してしまうんです(笑)。だから、今は“無でいることの大切さ”を痛感しています」。

――おニャン子クラブも来月で解散から30周年を迎えます。

「本当に早かったですね。先ほどもお話しした通り、若い頃はあえておニャン子色を消していました。近年おニャン子色を出すようになったのは、AKB48さんの影響が強いんです。新しいものが出てくると古いものは淘汰されるじゃないですか。それがすごく悲しいので、(おニャン子クラブを)後世に残したいと思うようになったんです。この30年で一番成長したのは『我慢を覚えたこと』かな(笑)。色々なことがあった分磨かれたので、素敵な50歳を迎えられたと思います!」。

――毎年恒例のファン主催の解散記念イベントも、6年前に国生さんがゲストに来てくださったおかげで、その後、様々な元おニャン子たちが来てくださるようになりました。

「実は、6年前にファンの女性から『あなたはこのイベントに参加するべきです!』といったメッセージ性の強いコメントをいただいて(笑)初めて知ったんです。しかも、場所や日にちにこだわり、主催者の自腹とファンのカンパで20年以上も運営されている……。その熱意に感激して参加したいと思うようになりました」。

――今年は30周年の節目のイベントになります!

「今年でイベントも一段落するみたいですが、30周年ということで、私を含めて例年以上に出演可能な元おニャン子たちが集まる予定です。ステージ上で歌詞が飛んでも、お客さんが『国生またかよ!』と言いながらも教えてくれる……(笑)。素敵な関係ですよね。今後イベントという形が無くなっても、ファンの方には毎年集まってほしいです!」。

――国生さんにとっておニャン子クラブとはなんですか?

「すべての基盤です。歌にしてもドラマにしても最高のスタッフさんに囲まれていたので、後の芸能活動にも多大な影響を及ぼしました。スタートラインが高かった分、そこについていけない自分の実力の無さと戦ったりもしましたが、そのおかげでものすごく成長できたと思います。芸能活動のスタートがおニャン子クラブで本当に幸せでした!」。



 


 
 

国生さゆり(こくしょう・さゆり)

生年月日:1966年12月22日
出身地:鹿児島県
血液型:A型

 

【CHECK IT】
1985年2月、夕やけニャンニャンの前身番組である「オールナイトフジ女子高生スペシャル」に出演。その流れで同年4月、会員番号8番としておニャン子クラブの結成メンバーとなる。1986年2月に「バレンタイン・キッス」でソロデビュー。翌年4月、おニャン子クラブを卒業し芸能活動を継続。現在はドラマや映画などの女優活動を中心に、バラエティ番組でも活躍中。8月2日(水)に映画「一週間フレンズ。」のDVD&Blu-rayが発売。8月5日(土)スタートのドラマ「ウツボカズラの夢」(フジテレビ系)にレギュラー出演。映画「なつやすみの巨匠」のDVDが発売中。9月18日(月・祝)に行われるおニャン子クラブ解散30周年イベント「おニャン子クラブ FINAL LEGEND “THE GRAND FINAL”」に出演予定。

 

詳しい情報は国生さゆり 公式HPへ
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